はじめに
「私は何故、写真を撮るのだろう」
ふと、自分に問うことがあります。
私はとても内向的な人間です。仕事では多くの人と関わりますが、本当はひとりで過ごす方が心地よく、ときには誰にも会わずにいたくなることさえあります。だからこそ、静かに光を待ち、黙々と撮影できる写真は自分にぴったりの趣味でした。
しかし不思議なことに、写真を撮るほどに「もっと人と関わりたい」「社会の役に立ちたい」という思いも膨らんでいきます。人付き合いは苦手ですが、そのくせ根本では人が好きなんだと思います。矛盾しているようで、どこか自然でもある。写真は私を内に向かわせると同時に、外の世界へつなげてくれる存在でもあるのです。
曖昧で恐縮ですが、これが「私が写真を撮る理由」の気がします。
写真とは何だろう
写真とは何でしょうか。科学的に言えば、光をセンサーがとらえ、電気信号に変換した「光の記録」にすぎません。冷静に考えれば、ただのデータです。光の波形を形に変換した、無機質な記録です。
けれど私は今日もカメラを手に取り、シャッターを切ります。理由を言葉にすることは難しい。理屈で説明できるものではないのです。心が動いた瞬間、目の前の景色や光景を残さずにはいられない。未来の誰かに見せるためでもなく、評価されるためでもなく、ただ「生きていた証」を刻むために。少々大袈裟に聞こえるかもしれませんが、自分史のようなものだと思っています。
写真との関わり方
将来、写真とどう関わっていたいのか。1年後、5年後、10年後のビジョンはまだぼんやりとしています。ただ撮り続けるだけかもしれない。そう考えると孤独や寂しさを感じることもあります。
それでも夢だけはあります。
同じ趣味を持つ人々と街を撮り歩くことがでたら、どんなに楽しいだろう。
腕を磨いた暁には、初心者向けに教える場を作ることができたら、どんなに素晴らしいことだろう。
取材や出版を通じて、人や地域の魅力を伝えることができたら、それはもはや立派な仕事だ。
地方の風景や文化を切り取り、誰かの心にそっと届けることができたら、生きてきた証にすらなるのではないだろうか。
写真は、私を内に向かわせると同時に、外の世界とつなげてくれる存在なのです。孤独と向き合う時間でありながら、誰かに届く可能性を秘めています。その矛盾が、心を引き締め、シャッターを押す手に力を与えます。
本サイトを礎に
何かを形に残すには、ある程度の実績が必要です。その基盤として、このブログを育てていきたい。記事を重ね、経験を積み、「ここに並んでいるものが私のポートフォリオです」と胸を張って言えるような自信作をそろえる。
文章を書くことも、写真を現像することも、どちらも孤独の中で自分と向き合う行為です。過去の失敗も、迷いも、不安も、記事や写真の中に溶け込ませながら、少しずつ形にしていく。そうして初めて、自分の心の声を他者に伝えられるのだと思います。
おわりに
意味や成果を追い求めれば、写真は重く、苦しいものになります。将来像はまだはっきりしない。けれどカメラを手にした瞬間の高揚感、ファインダー越しに世界を見つめ直す静けさは、何ものにも代えがたい。
迷いも不安も抱えたまま、それでも私はシャッターを切り続けます。
孤独を抱え、矛盾を抱えた自分が生きている証として。
そしていつか、この写真たちが誰かの心に届く瞬間を、そっと願いながら。
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