娘の書道から感じたこと

マインド

娘は10年以上、書道を続けている。

長い間、楷書を繰り返し書いてきたが、最近ではかなり崩した字を習っている。

形は自由になっているはずなのに、不思議と乱れて見えない。むしろその方が伸びやかで、見ていて心地いい。

きっと、基本が身体に染み込んでいるからだと思う。

どこまで崩していいのか。
どこを残すべきなのか。

それが分かっているから、崩しても破綻しない。

それを見ていて、ふと考えた。

自分の写真も、そろそろ“崩していい”のではないかと。

これまでは、できるだけ正確に写すことを意識してきた。
露出を外さず、ピントを外さず、現実をきちんと写し取る。

それは間違いなく大事なことだし、その積み重ねがあったからこそ、今の自分があるとも思う。

ただ一方で、少し整いすぎているのではないか、という感覚もある。

崩すと言っても、破綻させるわけではない。

現実をそのまま写し込むのではなく、
そこに自分の感情を重ねるように、“描く”感覚に近づけてみたい。

見たものではなく、感じたものを残す。

そういう意味での崩し方を、試してみたいと思っている。

そしてその役割は、やはりfpが担うことになる気がしている。

性能を引き出しきるという意味では、少し外れた使い方かもしれない。
どちらかといえば、癖や不完全さを受け入れるような向き合い方になる。

でも、それも含めての魅力だと思っている。

完璧ではないこと。
むしろ、不完全であること。

そこにしか出てこない表情がある。

fpは、ときどきこちらの想像を越えてくる。

狙い通りではないのに、妙にしっくりくる一枚。
偶然のようでいて、どこか本質を捉えているような写真。

あの感覚は、なかなか言葉にできない。

だからこそ、もう少し踏み込んでみたいと思う。

整えることから、少しだけ外れてみる。

その先にあるものを、確かめてみたい。

コメント