考え過ぎず、自分らしく

マインド




一時期写真が撮れなかった。イップスなのか、それともスランプなのか、はたまたただの飽きなのか。故にブログ更新も滞っていた。最近、ようやく脱出しつつある。結局のところ、自分の写真がどうありたいかが不明確。人様の作品と比較してしまう。比較しても仕方のないものを比較してしまう。

この状態に陥っていた原因は、今になってみると少し分かる気がしている。

“基準”が外にあった。

誰かの写真を見ては、ああいう風に撮れたらいいなと思い、別の誰かの写真を見ては、やっぱりこっちの方がいいのかもしれないと揺れる。その繰り返しの中で、自分が何を良いと感じていたのかが、少しずつ分からなくなっていった。

当然、シャッターも重くなる。

どこを目指せばいいのか分からないまま撮る写真は、どうしても手応えがない。撮っても「これでいいのか?」という感覚が残り続ける。

それなら撮らない方がいい、という選択になってしまうのも無理はなかった。

ただ、それでも完全に離れなかったのは、写真そのものが嫌いになったわけではなかったからだと思う。

むしろ逆で、どうにかしてもう一度しっくりくる感覚を取り戻したい、という気持ちの方が強かった。

その中で、少しずつ意識していたのは、「外を見る時間」を減らすことだった。

他人の作品を見ること自体が悪いわけではない。ただ、今の自分にとっては、それがノイズになっていた。

だから一度、距離を置く。

その代わりに、自分の過去の写真を見返したり、ふと立ち止まって目の前の光を眺めたりする時間を増やした。

何が撮りたいのかではなく、
何を見たときに立ち止まるのか。

その感覚を、もう一度拾い直すような作業だった。

そして、だからこそ最近やっている「自分の好きを言語化する」という試みも、なかなか良い試みだと思っている。

感覚のままでも写真は撮れるが、それだけでは再現性がない。
言葉にすることで、自分がどこに反応しているのかが少しずつ見えてくる。

どこが好きなのか。
何に惹かれているのか。

曖昧だったものに輪郭を与えることで、ようやく自分の中に基準が生まれてくる。

すぐに答えが出るわけではないが、少しずつ「ああ、自分はこういうものに反応するんだな」という感覚が戻ってくる。

例えば、強い光よりも、やわらかく回り込む光。
くっきりとした輪郭よりも、どこか曖昧な境界。
説明的な画よりも、少し余白のあるもの。

そういった傾向が、自分の中に確かにある。

それに気づいてからは、写真に対する向き合い方も少し変わってきた。

上手く撮ろうとするのではなく、
違和感がないかどうかで判断する。

人と比べてどうかではなく、
自分の中でしっくりくるかどうか。

基準を内側に戻す。

それだけで、ずいぶんと楽になった。

もちろん、まだ迷いがなくなったわけではない。

撮っていても「これでいいのか」と思う瞬間はあるし、思い通りにいかないことの方が多い。

ただ、それでもシャッターは切れるようになってきた。

完璧な一枚を求めるのではなく、
まずは撮ること。

考えすぎる前に、少しだけ動くこと。

結局のところ、止まっている限りは何も変わらない。

写真に限った話ではないが、頭の中で整理しきれることは意外と少ない。実際に手を動かしてみて、ようやく分かることの方が多い。

だから今は、あまり難しく考えすぎないようにしている。

理想はあるけれど、それに届いていなくてもいい。
違和感があっても、そのまま残していい。

その積み重ねの中で、少しずつ輪郭が見えてくれば十分だと思っている。

遠回りに見えるかもしれないが、
たぶんこれが一番確実なやり方なんだろう。

焦らずに。

やれることから、少しずつやっていこうと思う。

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