写真を楽しむ上で、収差とうまく付き合うことは大切だと思う。一般的には「いかに収差を抑えるか」がレンズ性能の指標として語られることが多く、実際に最新のレンズは驚くほどそれらが補正されている。確かにその結果、解像感が高く、隅々まで均質で安定した描写が得られる。
ただ、収差をなくすことがそのまま“良い写真”に繋がるかというと、少し違う気もしている。例えば球面収差は、ピント面の前後にわずかな滲みを生み、全体のコントラストをやわらかくする。色収差も、輪郭に色のにじみを伴うことで、過度なシャープネスを抑える方向に働くことがある。コマ収差は点光源を崩し、周辺減光は自然と視線を中心へ導く。どれも本来は「補正すべきもの」とされるが、見方を変えれば、写真に奥行きや空気感を与える要素でもある。
こうした収差が完全に取り除かれた場合、画像としては非常に整う。情報は正確で、破綻もなく、いわゆる“よく写る”状態になる。ただ、その整いすぎた描写は、ときにあっさりと感じられることがある。綺麗ではあるが、どこか引っかかりがなく、印象に残りにくい。
おそらく、人の記憶や感覚そのものが、そこまで均質ではないからだと思う。現実をそのまま写し取るのではなく、少しの曖昧さや揺らぎを含んでいる方が、体験としてはむしろ自然に近い。
だからこそ、収差は単純に排除するものではなく、「どう付き合うか」が重要になる。
すべてを残すのでもなく、すべてを消すのでもない。わずかな滲みやにじみをどこまで許容し、どう活かすのか。そのバランスの中に、写りの個性が生まれる。
収差と付き合うというのは、欠点を受け入れることではなく、それをどう表現に織り交ぜていくかということなのだと思う。
コメント