撮れなくなってしまった。。。

最近、全く写真を撮れなくなってしまった。

モチベーションが上がらない——
そう言ってしまえば、それまでなのかもしれない。

けれど、今回は少し違う。
単なる気分の波ではない。
その停滞が、やけに長い。

そして何より、「撮りたい」と思わなくなってしまったことが、静かに、しかし確実に、自分の中で重く横たわっている。

もうかれこれ三カ月以上になるだろうか。

Noteの更新が滞っているのも、それが理由だ。

書けないのではなく、撮れない。
撮れないから、書けない。
何も生まれない。

以前なら、どこかへ出かけるとき、無意識にカメラを持っていた。
持っていないと落ち着かなかった。

街角の光、電車の窓に反射する夕景、何気ない交差点の空気。
「あ、これは撮れる」と思う瞬間が、日常の中にいくつも潜んでいた。

あの場所へ行けば、こんな感じで撮って、こんな色で現像して、仕上がりはきっとこうなる。
頭の中で完成形が見えていた。

それはある意味、成長の証だったのかもしれない。
経験が蓄積され、感覚が研ぎ澄まされ、再現性が高まっていく。

だが今は、その“見えてしまう”ことが重たい。

シャッターを切る前から、だいたいの上がりが想像できる。
そしてそれは、過去に撮ったあの写真と、おおよそ同じだと分かってしまう。

悪くはない。
むしろ安定している。

ブレも少ない。
構図も破綻しない。
色も破綻しない。

一定のクオリティには届く。

けれど、その安定はどこか既視感の繰り返しでもある。

「上手い」と言われる写真。
「らしい」と言われる写真。
それらは、いつの間にか自分の枠になっていた。

新鮮さがない。
驚きがない。
自分で自分の写真に、少し飽きてしまったのかもしれない。

かつては、撮るたびに小さな発見があった。
「あ、こんな光になるのか」
「こんな表情が写るのか」
そのたびに、自分の世界が少しだけ広がる感覚があった。

今はどうだろう。

撮る前から答えを知っている。
そして、予想通りの結果を受け取る。

それは安心ではある。
だが同時に、どこか虚しい。

だから最近は、カメラを持って歩かなくなった。

撮れないというよりむしろ、
撮ろうという意欲を失くしてしまったのだ。

かつて、この停滞から抜け出そうとしたこともある。

機材を変えてみた。
レンズを変えてみた。
色味を変え、露出を変え、撮る対象を変えた。

違う描写、違う空気感、新しい刺激。
確かに最初は興奮した。

新しい描写は、未知の質感を連れてきた。
ピントの乗り方が違うだけで、世界が少し違って見えた。
シャッター音が変わるだけで、気分も変わった。

けれど、やがてそれにも慣れてしまった。

最初は“違い”だったものが、やがて“自分のパターン”になる。
驚きは安心に変わり、安心は退屈へと姿を変える。

結局、機材ではなかった。

どんなカメラを持っても、
どんなレンズを使っても、
最終的に切り取っているのは、自分の目であり、自分の感覚であり、自分の癖だ。

機材ではなく、結局撮っているのは自分だ。

ならば、私はどこまで行けばいいのか。

技術を磨き、経験を重ね、再現性を高めた先に待っていたのが
「予測可能な自分」だとしたら——

これは停滞なのか。
それとも、次へ進むための踊り場なのか。

ふと考える。

もしかすると、私は「上手くなろう」と
余計なことを考え過ぎたのかもしれない。

失敗を減らし、ノイズを排除し、完成度を高めることに意識を向けすぎた。
ブレないこと、外さないこと、期待を裏切らないこと。

その結果、写真は整った。
だが、同時に何かを削ぎ落としてしまったのではないか。

未熟さ。
偶然。
制御不能な揺らぎ。

かつての写真には、どこか不安定な息遣いがあった。
構図が少し甘くても、色が少し暴れていても、そこには確かな熱があった。

今はどうだろう。

整いすぎている。
息を潜めている。
どこか、優等生のようだ。

それは悪いことではない。
けれど、自分が求めていたのは、本当にそれだったのだろうか。

最近、少しだけ考え方を変えてみようと思っている。

撮ることを目的にしない。
上手く撮ろうとしない。
「作品」にしようとしない。

評価を意識しない。
SNSの反応を想像しない。
“らしさ”を守ろうとしない。

ただ、反応する。

光に。
影に。
温度に。
匂いに。
違和感に。

心がわずかでも揺れたら、そこで立ち止まる。

うまく整えようとするから、息苦しくなるのかもしれない。
正解を知っているつもりになるから、つまらなくなるのかもしれない。

写真を“作る”のではなく、
写真に“出会う”感覚。

それはきっと、もっと受動的で、もっと不確かで、もっと頼りないものだ。

だが、その頼りなさの中にこそ、まだ見ぬ何かが潜んでいるのではないか。

上達とは、精度を高めることだと思っていた。
だが、もしかすると
上達とは、手放すことなのかもしれない。

積み上げてきたものを、一度疑うこと。
確立した方法を、あえて崩してみること。
安心を捨て、不安定に戻ること。

漠然とした怖さはある。

けれど、今のまま静かに枯れていくよりは、
少し揺れた方がいい。

まだ答えは出ていない。

この考え方で、本当に抜け出せるのかも分からない。
再び撮りたいと思える日が来るのかも分からない。

けれど今は、焦らないことにした。

撮れない自分を否定しない。
停滞している自分を責めない。

これは終わりではなく、
もしかすると、次の入り口かもしれない。

三カ月という空白は、無意味ではないはずだ。
沈黙には沈黙の役割がある。

今はただ、自分の感覚を整え直すところから始めてみようと思う。

カメラを持たなくてもいい。
シャッターを切らなくてもいい。

けれど、光を感じることはやめない。
風の温度に気づくことはやめない。
世界がわずかに揺れる瞬間を、見逃さない。

その先に、もう一度
「撮りたい」と思える衝動が芽生えるのなら。

そのときはきっと、
以前とは少し違う目で、
世界を見られるはずだから。

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